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ヨハン・ヴィルヘルム (ザクセン=アイゼナハ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨハン・ヴィルヘルム
Johann Wilhelm
ザクセン=アイゼナハ
在位 1698年 - 1729年

出生 (1666-10-17) 1666年10月17日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザイン=アルテンキルヒェン伯領フリーデヴァルト
死去 (1729-01-14) 1729年1月14日(62歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=アイゼナハ公領、アイゼナハ
配偶者 アマーリア・ファン・ナッサウ=ディーツ
  クリスティーネ・ユリアーネ・フォン・バーデン=ドゥルラハ
  マグダレーネ・ジビッレ・フォン・ザクセン=ヴァイセンフェルス
  マリー・クリスティーネ・フェリーツィタス・フォン・ライニンゲン=ダークスブルク=ファルケンブルク=ハイデスハイム
子女 一覧参照
家名 ヴェッティン家エルンスト系
父親 ザクセン=アイゼナハヨハン・ゲオルク1世
母親 ヨハネッテ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン
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ヨハン・ヴィルヘルム、1700年の版画

ヨハン・ヴィルヘルムJohann Wilhelm von Sachsen-Eisenach, 1666年10月17日 - 1729年1月14日)は、ドイツテューリンゲン地方の諸侯の1人。ザクセン=アイゼナハ公爵(在位:1698年 - 1729年)。

生涯

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ヨハン・ゲオルク1世とその妻でアルテンキルヒェンの女領主であるヨハネッテ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン(1632年 - 1701年)の間に第4子、三男として生まれた。1685年に両親の取り計らいにより、兄ヨハン・ゲオルク2世がアイゼナハ公爵領を相続するのに対し、ヨハン・ヴィルヘルムにも王侯としての生活が保障されるべく、母からザイン=アルテンキルヒェン伯爵領を受け継ぐことになった。

ヨハン・ゲオルク2世が1698年に子供のないまま死ぬと、公爵領を継承した。文化人気質で、ゲオルク・フィリップ・テレマンらの音楽家を宮廷の聖楽隊に参加させている。

子女

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生涯に4度結婚し、合わせて12人の子女をもうけている。

1690年11月28日にナッサウ=ディーツ侯ウィレム・フレデリックの娘アマーリア(1655年 - 1695年)と結婚し、間に1男1女をもうけた。

1697年2月27日にバーデン=ドゥルラハ公子カール・グスタフ(バーデン=ドゥルラハ辺境伯フリードリヒ6世の息子)の娘クリスティーネ・ユリアーネ(1678年 - 1707年)と再婚し、7人の子女をもうけた。

  • ヨハネッテ・アントイネッテ・ユリアーネ(1698年 - 1726年) - 1721年、ザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アドルフ2世と結婚
  • カロリーネ・クリスティーネ(1699年 - 1743年) - 1725年、ヘッセン=フィリップスタール方伯カール1世と結婚
  • アントン・グスタフ(1700年 - 1710年)
  • シャルロッテ・ヴィルヘルミーネ・ユリアーネ(1703年 - 1774年)
  • ヨハネッタ・ヴィルヘルミーネ・ユリアーネ(1704年 - 1705年)
  • カール・ヴィルヘルム(1706年)
  • カール・アウグスト(1707年 - 1711年)

1708年7月28日にザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アドルフ1世の娘マグダレーネ・ジビッレ(1673年 - 1726年)と3度目の結婚をし、間に1男2女をもうけた。

1727年5月29日にライニンゲン=ダークスブルク=ファルケンブルク=ハイデスハイム伯ヨハン・カールの娘マリー・クリスティーネ・フェリーツィタス(1692年 - 1743年)と4度目の結婚をしたが、間に子供をもうけることなく死別した。

外部リンク

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先代
ヨハン・ゲオルク2世
ザクセン=アイゼナハ公
1698年 - 1729年
次代
ヴィルヘルム・ハインリヒ